YOUTUBE チャンネル開設しました!
という名前のチャンネルを設定しました。
このチャンネルについては今後、私が生きていく中で、
様々なアートと向き合っていく記録的媒体として開設するに至りました!
なぜこのネーミングにしたのか
様々なアート活動(映像・写真・音楽・アート作品などの制作)を今後、行なっていく中で、全てを集約し、つなげていくためにはどうすることが最適なのかということを考えていった時、やはり今の時代、YOUTUBEが必要不可欠であり、最短であり、最適なのではないかなと考えました。プロセスまで残して楽しむことができる。
”生きるためのアート。”
”飯を食うためのアート。”
”アートで生きていく。”
”精神性を日々鍛えてゆくことは、心の中のアート。”
これらがこの『生きるためのアート道場』という
ネーミングに至った理由です。
このチャンネルをやる意味
いずれ死ぬ時が来たとしても、そこに存在として残ることができる。
認知度を広げることもできる。
かつて、というか、今でもそうですが、書籍がそうであったように、
今日では、映像や音としてデータで残ることで、生きた痕跡を
残すことができる世の中なのではないでしょうか。
私の尊敬する田坂広志先生も「死なない」とおっしゃっておられました。
いずれ死んでしまう私たちは、この際、生きた痕跡を残せれば良いなと考えます。
ダイバーシティー(多様性)はその人物を永遠に”情報”として包含する。
そしてまたその”情報”は、その人物の存在を存在たらしめる。
という点からも必要不可欠であると考えます。
どんなチャンネルにしていくのか
読んで字の如く、”生きるためのアート”を突き詰めてゆく!!
この厳しい世の中をアートだけで生きていくことを目指します!
俗世間に潜む様々なアーティスト達(変人:敬意を込めて)とコラボしながら
アート道を模索し、極めてゆく!
経営は最高のアートだ!という話も聞いたことがあるため、
まずは自分経営から始め、果ては大きな会社の経営へと発展させることが
できればなおよしだと考えています。
長い会社員生活を経て
長い会社員生活を終え、独立しフリーに生きていくことを決めました!
カメラマンとして今後生計を立てながら、各方面へのチャレンジを
気合い入れて!全力で!人生をかけて!やっていきますので
応援よろしくお願いいたします!
アーティストとしての自覚の有無
幼少期より、私自身は絵を描き、曲を描き、詩を書き、うたを歌い
バンドマンとして生きてきました。
当時からアーティストを目指し、自分はアーティストであることを
自覚して生きておりました。
人がやっていることを同じようにやるのはむしろ苦手でした。
”社会経験をしなければいけない”という義務感
しかしながら世間はそのような”単純な淡い想い”だけでは実らず、
辛酸を舐めながら社会経験をし、
ここまでやってきました。
(もちろん楽しいことも、たくさんありました。)
そしてまた、私も一人の人間として、みんなと同じように
それらの社会体験はしなければいけない責務のように感じていました。
(そうでないと、社会人として働いている人々の気持ちが
きっと、わからない。)
そしてまた、そうしたい。とも思っていました。
(人の気持ちに寄り添える人間になりたかった。)
一点突破した後
一通り、社会経験を経て、ある種の高みまで行った時、自分の中で
”このままで良いのだろうか。”
”本当に、これで良かったんだろうか。”
という疑問を抱きながら、
”この仕事でお世話になった方々もたくさんいるし感謝もしている。”
”みんなと過ごし築いていく未来も必ずある”
”このまま流されて、生きてゆくのもまた人生か。”
などと言う思いもありました。
いやでもやっぱり、、、。
など、心境はまるでマーブルカラーのようにモヤモヤとし始め
「ここら辺で変化しなくてはいけないな。」
会社の中で、できる何か工夫はないだろうかと模索を始め、
自己の中にあるクリエイティビティーを全開に織り混ぜて
仕事をするようになっていた矢先、
やはり、突出して、目立っていたためかそれが上司の目に留まり
上司と衝突することとなってしまいました。
自主勉強と情報収集の日々
上司と衝突する前の私は、仕事に全力で向き合っており、体力づくりを怠っては現場で動けないなと考え、早朝からランニングをしたり、会社のため、現場のためを思えば残業なんて当たり前、明日が来るんだからやって当然だ。何時間でも働きました。長距離通勤時は、動画を視聴して情報収集、聞く読書のオーディブルなども活用し、時間という時間を無駄にせずに働き、自己研鑽に励んでいました。それこそこのブログにも書いてきました。
工事では大きな現場を持ち、現場経営を行い作業員さん達のマネジメントを行いながら、顧客であるお役所様相手に調整を行い、施工管理、品質管理、安全管理、出来形管理、納品、検査対応、現場経営の一切合切をやっておりました。
それこそ「死んでもいいわ。」と思いながら働いていました。
「人間、どこまで働けば死ぬのか、実験だ」
「一回、死ぬまで働いたろうか」という意気込みで働いていました。
上司からの言葉
会社に対する不満はあるのはあったが、そんなことよりも、
「やれることを全力でやる。」その気概で取り組んでいました。
そうしているうちに、衝突した上司ではなく、
もう一人の尊敬する上司から
わざわざ食事に誘われ、あらたまった席で
「次会社を担うのは、お前だ。」との話をいただきました。
なんとこれは有難い言葉だ。と感じると同時に
この会社を私が、背負っていくのか、、、。
背負っていくには部が悪いな。
整備が出来てない。
それも含みで丸ごとということだな。
ある種の地獄が一生続く気がする。
と思いました。
ここは、業界が悪い部分もかなりの範囲を占めるのですが、
その言葉に一抹の不安を覚えました。
そして事件へ
このような流れの中、R5.4月から新規工事が始まった最中の
R5.6月1日に、事件は起きました。
全力で仕事に励み、全速力で疾走している足に棒を突っ込むがごとく
かの上司は、私の「人格」と「仕事感」を全否定してきました。
過去の話を引っ張り出し、有る事無い事好きなように怒っていました。
仕事を辞める決意が固まったのは、この瞬間でした。
全力で取り組んでも、喜ばれるどころか邪魔だと言われてしまう。
ここは、私のいるべき場所ではない。
そう確信し、現在、過去、未来、全て見通して覚悟し、
「仕事を辞めます」と伝えました。
この時点ではまだ、辞めることはできず、一般常識的に
「ほなさいなら」とはなれない上に、私が抱えている仕事量が多すぎるため
しばらくは耐えて仕事をしなければならないなと覚悟を決めていました。
しかし、やはりこの時に私の土木に対する熱意は、終わりを迎えておりました。
その後の経過
6月〜9月中旬までの間、息も絶え絶えになりながら、仕事をしていると
残業後の翌日の休みの日、早朝ランニングを終え、筋トレをした後、庭の草むしりをするという無謀な苦行を行っていたところ、”ぎっくり腰”になってしまい、一週間ほど休みました。まだまだ語れば長くなってしまいますので、このくらいにしますが、要するにこれらが絡まり、現場代理人を退き、退社する流れが正式に生まれました。
これは今考えるとラッキーだったんだと振り返ります。
はたまた、かの上司は”私のそういう部分”(土木向きじゃない思考)
を見抜いていたという点においてはやはり頭の良い方だったなと
敬服いたします。
辞める流れが発生してからは、もうトントン拍子で
辞める方向へと進んでゆきました。もちろんできる引き継ぎ作業は
きちんとしたつもりではいます。
このチャンネルは
土木に捧げ失われた私の十数年間から、
元来のアート体質の自分を取り戻すプロジェクトでもあります。
綺麗にまとめると
これまでの主は、社会に出て、会社員として会社に勤め、
地道に生活を営むことに邁進しておりました。
おかげさまで、先ほど述べたような紆余曲折はありましたが、
幸せな家庭を持つことができ、今では二児のに父親にもなることが出来ました。
生業としては、土木で施工管理を行なっておりましたが、
こちらの仕事は生涯を捧げるつもりで取り組まねば務まらない職務であります。
全てを投げ打って土木に従事する皆様のかっこよさ、勇ましさを日々感じながら
私個人としては、 ”やはり違う生き方をしてみたい” という相反する想いが強まり、
この土木に携わった15年ほどのキャリアを選択せず、再び、アートの道に入ろうと
想い至った次第です。
時代背景の違いと生き方の多様化
幼少期〜青年期と違うのは、インターネットが普及した点と、
現在のSNSと生活の結びつきです。これだけの土壌が醸成された現在において、私は、
果たすべきことが果たせる環境にいることに気がつきました。
アートを通して、生計をたて、人の役に立つ。
生活の中にアートを取り入れながら全てを繋いでゆく。
ひいては生活そのものがアートとなり
「生きていくためのアート道」というものを
突き詰めていくことになります。
まずはカメラマンという職業を通して、人と出会い、人と向き合い、
ものと向き合い、ものを作り、感動を生み、それによって子供達を育んでゆく。
そこには、楽しさ、夢、希望が溢れています。
決意表明
子供達は、この世界に一体、何しに生まれてきたんでしょうか。
その問いに対して ”とある一つの答え” を提示したい。
『アートするためだ』と。
何卒、よろしくお願いいたします。