R i n g - L o n g - P h o t o s  S o u p S o u p S o u p  G a l l e r y

About falling buildings

「倒壊する建物について」

人間は偉大だ。

組立てしまうんだもの。

建物を。

何言ってるんだ。

改めてそんなこと。

なんて思うかもしれない。

よく考えてくれ。ガラス一枚も私は製造できない。

木の柱なら、何とか作り出せるかもしれない。

しかし、木が育つには、苗や種から考えるとめちゃ時間がかかる。

木を切るにはチェーンソーがいる。

私にはチェーンソーを製造できない。斧でもいいのか。

チェーンソーで切って、重機で運び出して

トラックに積む必要がある。

重機もトラックも私には製造できない。

トラックで工場に運んで、切断機で切断して。

そう、切断機も製造できない。

何も出来ない。

辛うじてノコギリを作れたとして

どれだけの時間がかかる作業か計り知れない。

いやはや、だけど全部、人間が作り出して

それを行ってきている。

他にもいろいろある。

コンクリートにしても、0から作れない。

コンクリートを開発した研究者さんのおかげで

現代の建造物は成り立っている。

到底、開発しようなんて思い至らない。

のうのうと生きているだけの一市民。

鉄だってそう。鉄分集めて熱して成形。

強度も様々。品質云々言い出すと果てしない。

それに固い鉄を今度は加工して云々。

建物って果てしないノウハウの累積だと感じる。

こんなモノを作ってしまう人類ってのはすごい。

設計するための構造計算。これもできない。

なんてこった。強度偽装などはあるけど

正当に作られた建物ってのは、ノウハウの結晶。

建てるのに金と時間がかかるのは同然。

しかし思い知らされる。

建設業ってのはすごいってことを。

なんだかんだで、私は0から何かを作ろうと考えているようだ。

そんなことをする必要があるんだろうか。

そんな基準で考えていると、田んぼで米を育てていないといけなくなってしまう。

まずは食料ありきだろ。

つまり、考え方が間違っているに違いない。

この考え方でいくと、絵を描くために、

絵の具を作らなくてはいけなくなる。

写真を撮るためには、カメラを作らなければいけなくなる。

そんなことやってる場合ではないというか、しなくてもいい。

金を出せば買える。

つまり、お金か。

じゃあ金を作りますか?

日本円はもうすでにあるのでこれを作ると違法。

じゃあ国作りますか?新しい貨幣作りますか?

これもピンとこない。

何しろ、古代から積み上げてきたものたちを

改めて0から作り出すのは、一世代では困難ということだ。

諦めたらそこで終わりなんだろうけど、果たして。

歴史とは凄まじいものなんだなやはり。

改めて感じます。

パソコンにしても、インターネットにしても

こうしてブログ書けるのもすべて誰かのおかげ様。

扇風機、エアコン。もうなんだってそうだ。

ありがてえ話だな。

感謝が足りないって話になる。

日本人なんだから、日本を大切にしなきゃって

やはり思えばいいんだろうな。

国民がいなくては、国にならんだろう。

とも思う。

さて、どのように振る舞うべきなのか。

個人として。

一つ前のブログにも書いたけど

結局個人的な話になってくる。

あくまで個としての在り方になってくる。

ここからの価値創造って何ができるんだろうか。

これを考えていくのがよさそうだ。

自分自身はエネルギー体。

このエネルギー体を最高に活かせるのは自分自身だけ。

最大限に引き出す術は?

それを定量的に測るものは年収か?

いやはや一概にそうとも言えないな。

結局生まれて来て死ぬまでのひと騒ぎの間

何に興じながら生活をしていくか。

って感じか。

好きなことで飯は食えないと考えるか

好きでもないことをして対価を得るか

何をしていても、おんなじかも。

好きなことに興じても、家族がついてこなければ

幸福感は減ってしまうし、好きでもないことをしても

自己を満足させられないかもだし

笑って生きていければと思うが、

それはどこにあるのか。

エネルギー体としての発想に戻ろう。

エネルギー体としての熱量を、どの負荷装置に通過させるか。

ここが問題である。

「手を動かせ。」

この言葉は、”宙わたる教室”というドラマで藤竹先生が言っていた言葉。

結局、私は今、自己の思想に”手を動かしている”と言っていいと思う。

その辺が生真面目なくせに努力が足りていないので、今まさに努力して書いている。

そしてこれが楽しい。

つまりエネルギーの特性はこれで、有効活用になるのではないかと考えている。

自分自身を生かせるのは、考え方。

そうつまり、新しい考え方を提唱できればそれが

望ましい結果なのではないかと考えたりしている。

あくまで凡庸な私のような人間が、生きやすい思考って話。

どのように捉えて、表現していくのが最善なのか

ってことの追求に当たると考えています。

研究と言ってもいいかもしれない。

人生を掛けた研究。

心を救える研究。

これに執着している。

まず自分自身を救いたいと思っている。

結構苦労してしまっているので、救いたい。

自分自身さえ救えない人に

第三者を救うことなんてできないんじゃないかって思っている。

これもきっと生真面目なんだと思うけど

そういう風に生きていたいなって考えてる。

なんか風上に立って偉ぶって「こうすればいいんだよ」

なんてぎょうたらしく言われても

私は聞きたくもないから、なんだけども。

何が偉いわけでもない人間でいて、密やかに提唱していたい。

そういう救いでありたい。

ああそうだったんだって今、自分自身で思っている。

昔から思っているけど、本当に「偉い人」ってすごく少なくて

「偉そうな人」っていうのはとても多い。

どんな社会の小世界にも言えることだと思う。

本当に偉い人はまず偉そうではない。

私は偉い人になりたいわけではないが

そういう意味で、人の上に立てない。

しかし、家庭内では偉そうにしていたんだろうな。

口ばっかりかよ。

性癖か?なんだ?てめえみたいなやつの話なんて誰も聞かないぜ。

って水をぶっかけながら、それでも前に進むしかない。

進むしかないんだよ本当に。

今まですみませんでした。全人類に伝えたい。

話は変わって

私は、先日、エバーグリーンで、おばさんを見た。

そのおばさんは、レジでお金が足りなかったんだ。

4050円というお会計画面を、目を細めて見つめ

画面に顔面をねじりよせ凝視し

自分の財布から1000円を取り出して、

どうやってお金をいれたらいいのかわからない

という素振りを見せたので、順番待ちをしていた隣の私は

その一部始終を見、「ここにお金入れるんですよ」って促し、

おばさんからお札を受け取り、おばさんの代わりに挿入口にお札を挿入した。

だが、次のお金が出てくることはなかった。

私からも見えたその財布の中身には、それ以上のお札はなかった。

つまり、財布の中身を確認せずに買い物に来てしまったという顛末。だろう。

そうであってくれと思った。

金がないことが分かっていて、買い物にきたと考えると、

胸が痛くなった。

そのおばさんの素振りや身なりから

きっとお金がないであろうことが伺えた。

代わりにお金、自分の財布から出そうかとも一瞬思ったが、

きっとそれは間違っていると思った。

残りの3050円、私が出して、、、

いやいや。それは違うと思った。

そのおばさんに対して店員さんは、冷静に対応していた。

よくあることなのかもしれない。

今、スタッフ呼びますねって別の対応スタッフを呼んで対応し

次の私のレジ打ち作業を始め、別の会計機に案内してくれた。

会計を終え、そのおばさんを横目に私はそそくさと立ち去っていた。

冷たい人間なのかもしれない。

車に戻る途中、なぜ私は、おばさんのためにお金を出せないのかと考えた。

有り余る富をもっていたなら、出してあげられたのだろうか?

ややこしいおばさんには関わらないほうがいいという判断なのか?

車に買い物した荷物を放り込みながら考えた。

果たして、私の判断は正しかったのか?

おばさんの買い物内容は見ていない。

見たくなかったというのが正しいのかもしれない。

もしかして、おばさんは不必要なモノを買いまくっていたのだったら

払う必要もないだろうし、等

ハンドルを握りながら、様々考えた。

おばさんにとって、何が正解か、私にとって何が正解か

全然わからないことだった。

簡単な答えは、金がなかったから買えなかった。

それだけ。

単純明快な一般常識。

考える必要もありません。そう言ってしまえば話は終わる。

同情。

同情って意味あるのか?

ないかもしれない。

「同情するなら金をくれ」という名言がよみがえってくる。

お金もあげないで同情するなんて

間違ってるって考え方もある。きっと。

私の顕在意識はお金をあげなかった。

スルーした。

総合的に、そのように振る舞った。

”経済的に困っていることが明確な知人”であれば

出資していたかもしれないが彼女は

”見ず知らずの他人” であった。

私にとって胸に残る一件であった。

人によっては、なんとも思わないでしょうが。

同情してしまっているんだろうな。

お金も出さないで。

つーわけでおばさんが幸せでありますようにと希望的に願いながら

自らの軽薄さに辟易する。

私は、彼女の生活を支えてあげることは出来ない。

たった一枚のガラスを製造できないのと同じように。

私がする必要性もない。のだろう。

なんとも奇妙な気持ちになってきた。

「おのれを愛するが如く、隣人を愛せよ。」

イエスキリストの教えである。

私にはそれが出来なかった。

きっと私は自分自身を愛せてもいない。

神を愛せてもいないのと同様に

おばさんを愛すこともできなかった。

おばさんの人生を組み立ててきたのは、、、

おばさんは、もしかして

強度偽装されたビルなのかもしれない。

そう思うと彼女自身がなりたくてなった彼女ではない。

だが、出来上がってしまっていた。

なんとも言えない気持ちだ。

強度の怪しい建物にきっと値段はつかない。

価値を認めてもらえない。

彼女はそういうポジションにいるのかと仮定すると

もう、どうしようもない。

余計に胸が痛くなってきた。

人はどのような人生を送ってもいつか必ず死ぬ。

そして時間とともに風化し、忘れ去られてゆく。

立派な建物も、Dr.STONEよろしく3700年もたってしまえば

何もなかったように倒壊してしまって跡形もないのだろう。

お金が足りなかったおばさんも、いつかみんなが忘れてしまう。

それはある種の救い。

隆盛と衰退のボルテージ推移の中で

それらのどのタイミングを垣間見ているのか。

この一件は衰退の一途の途中なのだと思う。

話は変わって、SNSは発信者にとって

数ある波のピークの一部分の表出であって

そのピークばかりを目の当たりにさせられてしまうのは

精神衛生上好ましいとは言えない。

現実が追い付かない私みたいな凡庸な人間にとって

ピークばかりを見せられるのは苦痛でしかない。

原因は妬みだ。

SNS更新に熱心に取り組めないのは、

発信するネタが結局、陳腐化する材料になってしまうという理由に加えて

見透かされることへの恐怖なのだと思う。

余計なことを考えてしまうことがいけないのだろうが

SNSを見てげんなりする人はとても多いのだろうと思っている。

みんなそんな波の中にいるに違いない。

多くの人はただSNSを見るだけ。発信はしないという人が大半で

皆、げんなりしながら、それでも、と思い、つい習慣化したスマホいじりをし

惰性的に情報収集をしているのだとおもう。

向き合い方を間違えると病原になりうるし、やはり使い方の問題なのである。

英知と労力を注いで構築された建造物は

壮大な年月を経ていつか倒壊する。

そのとき知覚できる私やあなたという存在も消失している。

故に、何かを”恐れる”必要性は薄いと言える。

どのような時間軸で生きるか。

短期的な目線で見るか、長期的な目線で見るかの違い。

今、健全に聳え立つ建造物も、頼りないおばさんも

凡庸な私自身も、そんに大差はないと言える。

賞賛されようが、ないがしろにされようが

特段、違いはないのである。

盛者必衰のことわり。

諸行無常の響きあり。

あなた自身の物語のエンディング。

これがあなた自身にとって

納得できるものであってくれと願い

また自らの軽薄さに辟易する。

そしてこれが私の中の納得であることは言うまでもない。

人生の楽しみ方にこだわるとは、このことなのかもしれないと

無知な私に舞い戻り、どん欲に苦しみ生きるのであった。

クッサ。きしょ。

と虚空に向かって吐き捨てた妻の言動が

私の今を物語っていると言える。

さて、価値創造とは何か。

妻のご機嫌を取ることではないということは

私の中で明確になっている。

妻というビルも、いずれ倒壊する。

私の家庭というビルもいずれ倒壊する。

今を生きる。今を生ききれ。

田坂広志先生が禅寺で言われた言葉を頂く。

やはりそれしかない。

未だに新しい考え方の提唱には及ばない。

まだまだこれからであって、

私はビルを建てることさえできていないのだ。

建てていないものは、倒壊しようがないということに

今、気づいたのであった。

これが、多くの人が何もしない、

できない、理由なのではないだろうか。

心を救う研究は、まだまだこれからだ。

これなら0から作れるのかもしれないと

励みたいと思える。

いつかの自分は、あのおばさんに変わって

お金を支払っているかもしれない。

変遷に淡い期待を込めて。

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