「夕暮れ時について」
結局のところ、西へ沈むのである。
東の空から上った太陽は、似たような軌道を辿り毎日暮れてゆく。
地球が太陽の周りを廻り、自らは傾いた駒みたいに自転して。
地上にいて、日々をただ過ごしているのではない。
現在位置をもっと俯瞰しろ。
宇宙規模で考えた時
自分自身なんて点よりも小さなもの。
くるくる回ってんだ。
間違っているのは
いつも同じだとか
当たり前だ、など。
そういった部分だ。
結局、常識がそう思わせるのはもとより
我々は刷り込まれた価値観
思考の癖から抜け出すのを
すぐに忘れることに原因がある。
習慣化してしまっている。
改めて自らを省みた方がいい。
マンネリ化して、つまらないのは
思考の迷路がいつも通り過ぎて攻略するのが簡単か
思考の迷路の先に希望の光があると思えず
行き止まりに当たっているかなど
そのような状態にあるからである。
我々の脳は、認識を変革させることが出来る。
迷路がある程度「クリアな壁」できているのなら、
光も見えるはずだ。
あっち側にはあんなモノがあるのか
あちらにはとんでもないモノがありそうだ。
なんてことに気付き、マンネリ化してしまっていたことを
忘れてしまうかもしれない。
そうなれば、「進もう」という意思が湧いてくるはずだ。
迷宮を透明化させる術、
その一つは読書かもしれない。
自らの壁をクリアにしていく行為。
これができるのは、唯一、
知識を得ることだけではないだろうか。
偉大な人物像に触れたり、面白い物語群に触れる。
様々なことを体験する。
これらが、目の前の思考の迷宮に、変化を与える。
話は少し変わるが、
自分自身は、エネルギー体である。
あなた自身も、エネルギー体である。
このエネルギーは、核エネルギーと同じである。
使い方を間違えるととんでもない方向へ向かう。
言わずとも理解できる話だろう。
人を殺すこともできれば
人の役に立つこともできる。
私や君の仕事は、この自身というエネルギー体を
うまく使うことなんだ。
焦点はその一点に充てるべきだ。
何か行動を起こすとき、
これをすると、人はどう思うだろうか?
誰かに見られて恥ずかしくないだろうか?
私は何をやっているんだろう?
などと思うことはないだろうか。
いや、そんなことばかりではないだろうか。
それらの思考は、エネルギーの無駄使い
以外のなんでもない。
君は目的に向かって進む。それが最善。
己というエネルギー。
つまり、君から発せられる気。
これをうまく活用することに注力する。
微力でも構わない。
それができれば、君の生きた時間は
エネルギーを正しく注ぎ、
正しく使った時間になる。
その時、限りある自身のエネルギーは
余すことなくうまく活用されたと言っていいだろう。
目的が見えない時も
エネルギー体の性質の理解につとめ、特徴を掴む。
先の宇宙の話の様に、俯瞰してそれを眺める。
こうしているうちに、エネルギーの方向性が
見えてくる場合もあるのではないだろうか。
ここでさらに確認してほしいことは、君以外に
このエネルギーを有効活用できる人は
誰一人として存在しないということ。
しかも、エネルギーの特性を正しく判断できるのもやはり
自分自身以外、他にいないのだ。
自分自身よりも他人の方が私をつぶさに観察出来るのでは?
とも思うだろうが
他人に見せている自分自身というものは
本質ではない可能性が高い。
あくまで、他人には自身のエネルギーを
そういう意味で正しく判断することは出来ない。
また、気付けたとしてもそれを行使できない。
自分自身が、本来の自分の本質を理解して
うまく活用する。
表出する言葉、態度、行動、思考
これに注ぐのだ。
逆に言うと本質としての自分自身のエネルギーを
外にぶつける必要があるのだ。
今までは出来ていなくても
これからそれをすることは出来る。
毎日が同じなのではない。
同じ慣習に染まりきって
思考を停止してしまっているであろう自分自身に
気付く必要がある。
他人が「こうする方が良い」
と言っているからそうするのではなく
君が君自身のエネルギーをうまく活用するのが正しい。
青から赤だけが残った空になって
夜が訪れるまでの間。
可視光線の変化を見る。
夕暮れ時が教えてくれているのは
偉大な太陽のエネルギーの様相。
太陽の様に、自分自身もエネルギー体であるということを
再認識するのにもってこいのひと時なのである。
太陽は常に、エネルギーを放ち、我々に与え
見返りを求めない。
その降り注ぐエネルギーが我々の活動の源となっている。
太陽は常に、正しい在り方を
私たちに見せてくれている。
そう思って眺めてみるのも
ありかもね。