ついに乗ってきました。
しんどかったメンタルが開放されてきて
開き直ってきた感じですね。
何によって解放されてきたかというと
これは作曲ですね。いわゆる音楽。
本来の自分自身の活動を取り戻した感じ
ただひたすら作曲に没頭する。
それともう一つ、絵を描くこと。
やはり私は、クリエイティブに生きることを主眼に置いたひとだということを
再認識しているところであります。
結局、作品は、完成させないと成仏しません。
私は、作品を製作してきていますが、
今後はきちんと完成させるということに執着したいと思います。
完成させなければ、それは作品ではない。
そして、人の前に出す。
ここまでのプロセスに執着する必要がある。
途中で挫折してしまうことが「混沌の原因」である。
人生半ば、やっとそのことに気づき、
ここから必死こきたいと思います。
写真は、撮影して終了。
勘違いしないでほしいが、写真の描き方はある。
確かにある。
写真にないものが、音楽と絵にある。
私はそれら全般にあきらめない。
総合的に開花させる。
やってやるぜ。
この道で生きてやる。
写真はアートとしてとらえることもできるが
基本的には私という人間が、何で飯を食うか
というところに焦点を当てた時に浮かび上がってきた手法。
ここは通過点としての役割がありまた、アートとの交差点でもある。
だから私は写真を撮る。私なりに。
そいつは表現をしたいヤツだ。(自分自身のこと)
意味が見えてきた。
自分自身のマップが明確になってきたという感じ。
写真、音楽、絵、アート
その界隈が私のフィールド。
それらを駆使して、表現を行う者。
これでいいじゃないか。
いずれにしても、何を表現するか。
これについては、「この世に生まれてこれて良かった」
と思える世界へとつなげていきたい。
これが私のミッションだ。
そうであってほしい。
写真は、人、物、風景を撮影することになる。
例えば、人を撮影して、その人に、その人の家族に、
その人の良いところを残す。
そして喜んでもらう。感動を生みたい。喜びを生みたい。
音楽については、写真にはない、音楽にしかない表現がある。
音、言葉、雰囲気、情熱、私が今まで、最終的に救われてきたのは正直、音楽だ
ここを、私の選択肢から外すことはできない。
絵、これは、写真にはない表現が満載だ。
絵によってもたらされる感動を今日は体感してきた。
人物像が浮かび上がる素晴らしい個展だった。
人となりを表現するのに、この絵を描くという手法を使わない手はない。
だから、私は、へたくそだが、私なりに、絵に挑戦しようと思う。
音楽も下手くそだ。
だが、うまいとか、下手とか、もうどうでもいい。
文章だってそうだ。
うまいとか下手とか、もはや、気にしない。
表現を完成させることに、フォーカスして生きていくことにした。
写真と、絵に関しては個展を開き、
音楽は、ライブ活動と、音源製作を行う。
そうして私は、表現していく。
金がどうとか言いたくなるけど、もういっちゃだめだ。
金は、何とかしていくしかない。
それだけだ。
時間を有効活用して、製作時間にあててゆく。
それが私の残りの人生の主目的。
結果は、人が評価してくれる。
駄作をたくさん完成させてゆく。
駄作駄作駄作。
構うもんか。
誰かの心に刺さればありがたい。
それだけの事だ。
自己満足というのは、あきらめた時に使うもんだ。
邁進し続けて、発明を続ける。
これは果たして自己満足といえようか。
そこで終わらないで、次作る。
次作る。
これができてこそ。
アーティストに終わりはない。
人間そのものがアートとなる。
死ぬまでもがきあがき、喜び悲しめ。
それが私の余生の意味になる。
死んだ後の意味になる。
他人の眼ばかり気にして生きてきたここ40年。
もう十分気に尽くした。
もう「世間体」なんていわない。
私は正直に生きてゆくだけだ。
私なりに。
不器用なのはわかりきってる。
だから何だよ。
だからこそだろうがよ。
だからこそやるんだろうが。
忘れたいことだらけの今だけど
これだけは自分自身、忘れちゃいけない。
完成にコミットする。
完成させる。
これに尽きる。
その完成は、自分が完成だと思うまでやりこむこと。
完成させて、その時の自分を成仏させてやれ。
そして次に挑戦しろ。
それでいい。
駄作祭りの始まりだ。
それを継続して私の形になる。
これまでの自分がダメだったわけではない。
これまでの自分にも感謝している。
それも忘れちゃいけないこと。
この文章も完成させる。
そういうこと。
さあ駄文の完成です。
皆さんごきげんよう。